人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。(エペソ人への手紙6章6節―7節)
1.マタイの福音書25章31節―40節
2.マルコの福音書10章35節―45節
3.ヨハネの福音書13章1節―17節
4.ペテロの手紙第一4章7節ー10節
イエス様はだれが一番偉いかと論じ合っていた弟子たちに「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。(マルコの福音書9章34節―35節)」と、神でありながらご自身について「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。(マルコの福音書10章45節)」と仰せられたのですが、その根底にあるものは神の愛でした(ヨハネの福音書3章16節)。興味深いことに、パウロは「人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。」と勧めるとともに、良いことを行えば主から報いが与えられることを話されてから、「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ人への手紙6章12節)」と、キリスト者が留意すべき点を語りました。悪魔は自分を愛するように、人からの栄誉を求めるように仕向けてくるのではないでしょうか。イエス様は当時奴隷の仕事であった足を洗うという行為を弟子たちに、しかもユダが裏切ることをご存知であったにもかかわらずユダの足をも洗われたのですが、その行為は神の愛による行為であり、イエス様は弟子たちに模範を示されたことを話されたのでした(ヨハネの福音書13章1節―16節)。パウロはキリスト者を迫害することはイエス様を迫害していることであることを知ったのでした(使徒の働き9章1節ー5節)。悪魔の策略に陥らないように、今日の聖句を心に据えるとともに、主がとりなしてくださっていることを(ローマ人への手紙8章34節)忘れずに、人に仕えることはキリストに仕えていることであることを自覚し、喜びをもって互いに仕えるようにしようではありませんか。