キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。(ローマ人への手紙10章4節)

1.マタイの福音書5章17節―20節
2.ローマ人への手紙3章19節―30節
3.ガラテヤ人への手紙3章1節―14節
4.ピリピ人への手紙3章2節―9節

今日の聖句は「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」と語っていますが、それは律法が意味をなさなくなるという意味ではなく、イエス様が「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。」と仰せられたように、律法を成就されたということをおさえて理解する必要があるように思います。ではどのように律法が成就されたかということは、律法の専門家がイエス様をためそうとして「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」と問いかけに対して「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたがたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めもそれと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」と仰せられるとともに、愛するということに関して「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。(ヨハネの福音書14章15節)」と仰せられたように、イエス様はご自身を一粒の麦にたとえられた時にも、ゲッセマネの園においても父なる神のみこころに従うお祈りをされ、十字架の死にまでも従われ父から与えられた使命に生きるとともに、ユダはイエス様を信じていないだけでなく裏切ることを、ペテロがイエス様のことを三度否定することも、弟子たちがどのような行動をするかをすべてご存知でありながらも弟子たちの足を洗われ、最後まで弟子たちを愛され、第一と第二のいましめ、すなわち律法を完全に成就されたのでした。ですから、キリスト者になったパウロは神に対して熱心でも神の義を知らない同胞が救われることを願い求めているように(ローマ人への手紙10章1節―2節)、人々の救いのために祈ろうではありませんか。