イエスは言われた「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネの福音書6章35節)

1.詩篇23篇1節―3節
2.エレミヤ書31章23節―25節
3. マタイの福音書11章28節―30節
4.ヨハネの福音書10章8節―10節

神から知恵の心と判断する心を与えられたソロモンは「私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。実に私の心はどんな労苦をも喜んだ。これが、私のすべての労苦による私の受ける分であった。しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益となるものはない。」と、「日の下」、すなわち、この世のあらゆる分野を探索し(伝道者の書2章3節―11節)、この世が与えることができるのはむなしさしかないことを結論づける(伝道者の書1章2節―3節)一方で、「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。(伝道者の書12章13節―14節)」と、神がどんなに偉大な方であるかを知り、畏敬の念をもって神をあがめ、神のことばであるみことばに生きることこそが人間が生きるべき道であることを悟り、勧告しています。私たちの問題はソロモンのような財もなく、王様ではないので、自分の思いのままに生きることができないため、金持ちの人をうらやんだり、才能のある人にあこがれたりしながら「もし、もっとお金があれば」とか、「もし、もっと頭がよければ」と、「もし」の世界に生きてしまいがちになりますが、ソロモンはこの世が与えることのできるものを全て手に入れても心が満たされないことを教えてくださっています。イエス様は心の飢え渇きを満たすことができる唯一の方であることを宣言されました。死に勝利され、永遠のいのちを与えることができる方、私たちの弱さも、何が必要なのかもすべてご存知な方はイエス様以外にだれもおりません。心の飢え渇きを覚えるとき、イエス様よりもこの世に心が向いているのではないでしょうか。この世が与えることのできない豊かさがイエス様によって与えられていることを忘れずに生きようではありませんか。