ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。(詩篇20篇7節)

1.サムエル記第一17章41節―54節
2.ルカの福音書10章17節―19節
3.ピリピ人への手紙2章6節―11節
4.使徒の働き3章1節―16節

創世記2章19節に「神である主は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるのかを見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、その名になった。」と、主は人に神が創造された被造物に名をつける権威を与えられたように、名前によってさまざまなものを判別することができますし、権威をも現すことができるのではないでしょうか。モーセが「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは『その名はなんですか』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」と主に尋ねると、主はまず「『わたしはある』という者である。」と過去においても現在においても未来においても存在するものであることを話されてから「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの名である。」と、具体的に仰せられたのは、民がモーセを受け入れるためでもあったのではないでしょうか(出エジプト記3章13節―15節)。箴言18章10節―11節は「主の名は堅固なやぐら。正しい者はその中に走って行って安全である。富む者の財産はその堅固な城。自分ではそそり立つ城壁のように思っている。」と、人はとかくこの世の富や財産、名声に力があるかのように思いがちですが、主の名のように絶対的なものではなく、罪の赦しや死に勝利する力はありません。すべては主の御名によって与えられていることを感謝し、人はさまざまなことを誇りますが、今日の聖句「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。」を心に据えて、主の御名がどれほどの力と権威があるかを忘れないようにしようではありませんか。