俗悪で愚にもつかぬ空想話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分を鍛錬しなさい。肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。(テモテへの手紙第一4章7節―8節)

1.コリント人への手紙第一 9章24節―27節
2.コリント人への手紙第二6章1節―10節
3.ピリピ人への手紙3章13節―14節
4.ヘブル人への手紙12章2節―16節

ソロモンは日の下すなわち、この世には保証がないことを語るとともに(伝道者の書9章11節―12節)「朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を離してはならない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもしれない。(伝道者の書11章6節)」と語っています。クロアチア戦で残念ながら敗退してしまいましたが、考えて見れば予選で落ちてしまった国の選手もすべてのサッカー選手は勝利を得るためにたえず肉体を鍛錬し続けて試合に臨んでいることを思うとともに今日の聖句「俗悪で愚にもつかぬ空想話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分を鍛錬しなさい。肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。」を思い起こしました。パウロの「決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。(コリント人への手紙第一9章26節―27節)」や「私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。(コリント人への手紙第二6章1節)」と語っていることばから、恵みをむだにしない生き方こそ敬虔のための鍛錬ではないでしょうか。「ああなったら、こうなったらどうしよう。」などと空想するよりも、パウロのように「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ人への手紙8章28節)」と確信をもって言えるような敬虔さを身につけるように自分を鍛錬しようではありませんか。