私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られた者です。神は私たちが良い行いに歩むように、その良い行いさえもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ人への手紙2章10節)
1.イザヤ書43章1節―7節
2.テトスへの手紙3章3節―8節
3.ヘブル人への手紙10章14節―24節
4.ヤコブの手紙2章21節―26節
「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」と青年は、イエス様は「なぜ、良いことについてわたしに尋ねるのか。良い方はひとりだけです。もし、いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。」と仰せられ具体的に戒めについて話されると、彼はそのような戒めはみな守っていると言われましたので、イエス様が「もしあなたが完全になりたのなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすればあなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」と仰せられると、彼は多くの財産を持っていたので悲しんで去ってしまったように、戒めのひとつである隣人を自分自身のように愛することができなかったように、自分の利益が損なわれない程度のものであったことが明らかにされてしまったのでした。ですから、良い行いは良い方との関係が欠かせない事を示されたのではないでしょうか(マタイの福音書19章16節―22節)。パウロは「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることがないためです。」と語る一方で「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られた者です。神は私たちが良い行いに歩むように、その良い行いさえもあらかじめ備えてくださったのです。」と、キリスト者は良い行いをする者として新しく造られた存在であることを語っています。聖霊によって、十字架の血によって良心がきよめられることによって良い行いをすることが可能になるからではないでしょうか。主の栄光のために新しく造られたことを心に据え(イザヤ書43章7節)、主が喜ばれるように良い行いをともなった信仰生活をするように心がけようではありませんか。(テトスへの手紙3章8節)