神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ人への手紙8章33節―34節)

1.ヨブ記16章19節―21節
2.ローマ人への手紙14章1節―19節
3.コリント人への手紙第一3章18節―4章5節
4.ヨハネの手紙第一3章18節-20節

今日の聖句は「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。」「罪に定めようとするのはだれですか。」という問いかけは、キリスト者を訴えたり、罪に定めようとする人がおられることを示すとともに、それでもキリスト者は訴えられたり罪に定められたりすることがないこと、その理由として「死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」と語っています。ところで、ヨブ記1章と2章に見られるようにヨブを、ゼカリヤ書3章1節には大祭司ヨシュアを、黙示録12章10節にはキリスト者を訴える者はサタンとも呼ばれる悪魔であることを語るとともに、パウロが「なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟をあなどるのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。(ローマ人への手紙14章10節)」と、語るとともに「私をさばく方は主です。ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。(コリント人への手紙第一4章4節―5節)」と驚くべきことを語っています。パウロは自分のみじめさを知りましたが(ローマ人への手紙7章15節ー24節)、何ものもキリスト。イエスにある神の愛をからキリスト者を引き離すことはできないという確信をもって生きられましたが(ローマ人への手紙8章38節ー39節)、その秘訣は今日の聖句にあるのではないでしょうか。お互いにとりなしていただいている身であることを、神に愛されていることを忘れず、十字架で示された神の愛を、主の恵みを無駄にするような生き方をしないようにしようではありませんか。