人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためにではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。(ヘブル人への手紙9章27節―28節)
1.ルカの福音書23章32節―43節
2.ヨハネの福音書5章19節―30節
3.コリント人への手紙第一3章18節−4章5節
4.コリント人への手紙第二5章1節―10節
人は死後どうなるのかと思案し、死後についてさまざまな人がさまざまなことを語り、数えきれないほどの宗教が生まれました。ですから、宗教は、死や神との関係を模索し人の知恵を駆使して得た産物であり、哲学の領域を超えることはできません。どんな哲学者であっても教祖であっても今日の聖句が「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためにではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」と語っているように、死後、裁く権利を与えられたキリストのさばきの座で裁かれるのです。ですから、人には人を裁く権利はないのです。パウロが「私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。(コリント人への手紙第一4章4節―5節)」と語っているように、キリスト者は、有罪判決を受けるのではなく、驚くべきことに「称賛が届くのです。」と語っているように救いはゆるいがないものであることを心に据え、主の再臨はいつなのかわかりませんが、「・・をしないと地獄に落ちる」と、脅したり、恐れを与えるような宗教から人々が救われ、主の再臨のとき、喜んで主にお会いできるように祈ろうではありませんか。