信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。(ヘブル人への手紙122節)

1.使徒の働き3章1節―16節
2.コリント人への手紙第一2章1節―5節
3.ピリピ人への手紙2章6節―11節
4.ペテロの手紙第一1章18節―21節

人には信じる力が与えられていますが、その信じる力をどこに、またどなたに向けるかによって信仰で生きているか、または過信して生きているかの違いが起きるのではないでしょうか。ペテロにイエス様が「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしはあなたの信仰がなくならにように、あなたのために祈りました。」と、仰せられたにもかかわらず、彼は「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」と、信じる力を自分にかけて過信したのですが、イエス様が「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏がなくまでに、あなたは3度、わたしを知らないと言います。」と仰せられたのでした。彼は三度目にイエス様と一緒にいたことを否定したのと同時に鶏が鳴き、主が振り向いてペテロを見つめたので、ペテロはイエス様のことばを思い出して外に出て激しく泣いたのですが(ルカの福音書22章31節―34節)、聖霊の力に満たされたペテロは「あなたがたは、死者の中からキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。(ペテロの手紙第一1章21節)」と、パウロもコリントの聖徒たちに「私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによってではなく、御霊と御力の現れでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。(コリント人への手紙第一2章3節―5節)」と、信仰の奥義を語ったのでした。「私には信仰がない」と思う時、信仰の完成者であるイエス様を見ていないのではないでしょうか。パウロは「神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。(ローマ人への手紙12章2節)」と、信仰は神によって与えられていることをわきまえ知って生きるように勧めています。信仰を与えてくださるだけでなく完成へと導いてくださり、信仰がなくならないように祈っていてくださる主を見上げて生きようではありませんか。