愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする。」(ローマ人への手紙12章19節)

1.エレミヤ書9章1節―9節
2.マタイの福音書5章38節―48節
3. ヘブル人への手紙12章14節―15節
4.ヤコブの手紙1章18節―22節

サウルはダビデを非常に愛していたのですが、ペリシテ人との戦いに勝利して凱旋した時、女性たちが「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」と笑いながら歌っているのを聞いて、怒り、不満に思い、その日以来ダビデを疑いの目で見るようになり、ダビデを殺害することが彼の人生の目的となってしまったのでした。そのためにダビデは逃亡生活をよぎなくされたのですが、ダビデと部下たちが隠れていたほら穴にサウルが用をたすために入って来たので、部下が「今こそ、主があなたに、『見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたのよいと思うようにせよ』と言われた、その時です。」と言ったので、ダビデはサウルの上着のすそを、こっそり切り取ったのですが、心が痛み「私が、主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ、彼は主に油注がれた方だから。」と言って部下がサウルに襲いかかることを許さず、サウルに対しては「どうが、主が、私とあなたの間をさばき、主が私の仇を、あなたに報いられますように。私はあなたに手をかけることはしません。・・どうか主が、さばき人となり、私とあなたの間をさばき、私の訴えを取り上げて、これを弁護し、正しいさばきであなたの手から私を救ってくださいますように。」と話され、自分で復讐せずに主に委ねたのでした(サムエル記24章1節―15節)。ヤコブ手紙1章20節は「人の怒りは神の義を実現するものではありません。」と語っています。人の怒りは感情によるものであり、その根底には、自分の義やなんらかのプライドがあるのではないでしょうか。やられたらやり返すような生き方ではなく、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」と仰せられただけでなく罪人を救うために十字架の死にまで従われ、人々のために「父よ。彼らをお赦しください、彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」ととりなして祈られたイエス様を仰ぎみて、イエス様の十字架の死は「私のため」であったことを自覚し、今日の聖句が「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。」と語っているように、ダビデのように主を信頼して祈り、主の御手にゆだねて生きるようにしようではありませんか。