愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それはキリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。(ペテロの手紙第一4章12節―13節)

1.ヘブル人への手紙5章7節―10節
2.ヘブル人への手紙12章2節―13節
3.ヤコブの手紙1章2節―4節
4. ペテロの手紙第一1章3節―9節

イエス様は「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。(マタイの福音書6章8節)」と仰せられました。私たちは試練を願うどころか、試練に会いたくないと思いますが、イエス様が「弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。(ルカの福音6章40節)」と、主ご自身が自ら体験されたように、試みる者、すなわち悪魔がキリスト者を試みることを許されるのではないでしょうか。悪魔の試みに会われたペテロは「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」と、自信たっぷりに申し上げたのですが、イエス様を三度知らない、と言って自分のみじめさを味わったのですが(ルカの福音書22章31節-34節)、そのことによってキリスト者の信仰と希望は神にかかっているという真理を知り(ペテロの手紙第一1章21節)、「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それはキリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。」と、試練がもたらす結果を語っています。アブラハムも試練に会われたことを思いつつ、試練は、堅く信仰に立ち、私たちの師であるイエス様と同じように神の栄光を現すために、平安な義の実を結ぶために主がご用意されたものであることを心に据えてゲッセマネでご自身の願いを申し上げながらも苦悩しながらも父のみこころに従って死に至るまで従われ、栄光を現されたイエス様を仰ぎ見て生きようではありませんか。