私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。(ローマ人への手紙6章4節)
1.コリント人への手紙第一6章14節―20節
2.コリント人への手紙第二5章7節―17節
3.エペソ人への手紙2章1節―9節
4.エペソ人への手紙4章17節―24節
イエス様は「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば豊かな実を結びます。」とご自身を一粒の麦にたとえられ、ご自身の死に言及しながらも「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現してください。」と、ゲッセマネの園でも「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのもこころのように、なさってください。(マタイの福音書26章39節)」と仰せられたように心の葛藤を覚えましたが、罪や死、サタンの支配からの救いを完成するために、死のバプテスマを受け入れられましたが、そのことによって父なる神はイエス様を死からよみがえらされ栄光を現されたのでした。パウロは「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」と、語っていますが、そこに使われている「いのち」はギリシャ語のゾーエ、すなわちキリストによって与えられる永遠のいのちです。イエス様は死からよみがえられ今は父なる神の右に座しておられるように、恵みによって救われているキリスト者も天の所にすわらせていただいていることを(エペソ人への手紙2章6節)、この世に属する者ではなく、すでに世に対して死んでいる者であることを(ガラテヤ人への手紙6章14節)心に据えて、日々、新しい歩みをするために、世の価値観や生き方に惑わされないように、世の光として輝くために、いのちのみことばをしっかり握って生活しようではありませんか(ピリピ人への手紙2章16節)。
