もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。しかし、確かに、神は聞き入れ、私の祈りの声を心に留められた。ほむべきかな。神。神は、私の祈りを退けず、御恵みを私から取り去られなかった。(詩篇66篇18節―20節)

1.サムエル記第二7章12節―15節
2.詩篇23篇1節―6節
3.ルカの福音書18章9節―14節
4.ローマ人への手紙5章17節―21節

ダビデはバテシバとの姦淫の罪を犯し、バテシバから子を宿したことを聞かされると、彼女の夫ウリヤが戦死するようにし、未亡人となったバテシバを妻として迎え主のみこころをそこなったため、主はナタンを遣わして罪を指摘されたので、彼は罪を犯したことを認めて悔い改めたので、主は彼の罪を赦されたのでした。ダビデは主の恵みをよく知る者となったのでした。ですから、「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。しかし、確かに、神は聞き入れ、私の祈りの声を心に留められた。ほむべきかな。神。神は、私の祈りを退けず、御恵みを私から取り去られなかった。」と告白されたのでした。主はダビデに彼の子孫が罪を犯しても人の杖、人の子のむちをもって懲らしめることはあってもサウルから取り去ったようなことはしないことを約束され、その約束をダビデの子として、人の子としてこの世に遣わされたイエス様によって成就されたのでした。ですから、ヨハネの福音書1章16節―17節は「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからです。」と語っています。ヘブル人の手紙4章15節―16節が「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」と勧めているように、十字架において現された神の愛と主の恵みを感謝し、主をほめたたえて生きようではありませんか。