あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まわれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のかだらをもって、神の栄光を表しなさい。(コリント人への手紙第一6章19節―20節)
1.マタイの福音書11章28節―30節
2.コリント人への手紙第二3章17節―18節
3.コリント人への手紙第二5章7節―15節
4.エペソ人への手紙4章17節―25節
イエス様はご自身を一粒の麦にたとえられてアンデレとピリポに「人の子が栄光を受ける時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。・・わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」と、話されてから、「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現してください。」と言われると、天から「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」という声があった、とあります(ヨハネの福音書12章23節―28節)。今日の聖句は「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まわれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のかだらをもって、神の栄光を表しなさい。」と、イエス様を信じたことによって聖霊が与えられていることを自覚して神の栄光を現す生き方をするように勧めていますが、ゲッセマネの園での祈りを見ても、神の栄光を現すためにはイエス様ほどではありませんが、自分を捨てるための苦しみが伴うことがわかります。肉の私が、高ぶる心が起き上がる時、神のさばきや永遠の死から救うために、苦悶(くもん)しながらも、ご自身を捧げられたイエス様のことを考えようではありませんか(ヘブル人への手紙12章3節)。