どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。(エペソ人への手紙1章17節)
1.詩篇119篇97節ー99節
2.ルカの福音書24章13節ー44節
3.ヨハネの福音書14章22節ー31節
4.コリント人への手紙第一2章7節ー15節
屋上に上って屋根の瓦をはがして、中風をわずらっている人を床のままイエス様の前に、つり降ろした男たちの信仰を見てイエス様が「友よ。あなたの罪は赦されました。」と仰せられると、律法学者やパリサイ人たちは「神をけがすことを言う人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。」と理屈を言いましたが、イエス様は「なぜ、心の中でそんな理屈を言っているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしか。人の子は地上で罪を赦す権威を持っている事を、あなたがたに悟らせるために」と言われ、中風の人に、「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われたので、彼はたちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神をあがめながら自分の家に帰ったのですが、それは律法学者やパリサイ人たちが、イエス様は神であることを悟らせるためでもあったのでした(ルカの福音書5章17節―25節)。モーセとイスラエルの民は、多くの奇蹟を体験して神がどんな偉大な方であるかを体験して知っていたはずなのに、民が「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。」と大声で泣いて言ったので、主は鼻から出て吐きけをもよおすほど一ヶ月肉を与えることをモーセに仰せられると、モーセは「私といっしょにいる民は徒歩の男子だけで六十万です。しかもあなたは、彼らに肉を与え、一月の間食べさせる、と言われます。彼らのために羊の群れ、牛の群れをほふっても、彼らに十分でしょうか。彼らのために海の魚を全部集めても、彼らに十分でしょうか。」と申し上げると、主から「主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる。」と言われてしまったのでした。結局主はうずらを宿営の上に落としたので最も少なく集めた者の量は2300リットルでした。1リットルの牛乳パックを考えると驚くべき量です。キリスト者は神を知っていますが、パウロが「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。」と祈っているのは、恵みによって神から私たちに賜ったものを知ることができるように与えられている御霊の働きを妨げてしまう自分の考えや情欲に支配されたり、モーセや律法学者、パリサイ人のような不信仰に陥らないためではないでしょうか。今日も神の知恵であるみことばを、御霊による悟りを与えてくださるように祈ろうではありませんか。