どうか、平和の神ご自身が、どんな場合にも、いつも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。どうか主があなたがたすべてと、ともにおられますように。(テサロニケへの手紙第二3章16節)
1.マタイの福音書11章28節ー30節
2.ヨハネの福音書14章22節ー27節
3.ヨハネの福音書16章24節ー33節
4.ローマ人への手紙4章19節−5章1節
キリストを信じていても「私はパウロにつく」「私はアポロに」と「私」に生き、世の人々と同じようにな生き方をしているコリントの聖徒たちに、「私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。」と勧告してから、ご自身が受けた苦悩や迫害についてコリント人への手紙第二6章3節―10節において具体的に語っています。今日の聖句「どうか、平和の神ご自身が、どんな場合にも、いつも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。どうか主があなたがたすべてと、ともにおられますように。」は、パウロ自身と同じように迫害と患難とに耐えながら従順と信仰とを保っているテサロニケ人の教会に対するパウロの祈りですが、それはすべてのキリスト者に必要な祈りではないでしょうか。キリスト者は平和の神であるイエス様を信じたことによって、まず、神との平和が与えられているだけでなく、イエス様は世の終わりまでいつもともにいてくださる方なのに(マタイの福音書28章20節)、恐れや思い煩いに支配されるとイエス様が見えなくなってしまうのではないでしょうか。パウロは「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ人への手紙4章6節―7節)」と勧めているように、主は私たちの祈りをお聞きくださる方、すべてを益としてくださる方であることを認識して感謝をもって祈るなら、平和の神であるイエス様がこの世が、人の知恵が与えることのできない平安を与えてくださるのではないでしょうか。どんな時にも、どんな場合にも主がともにおられることを感謝して祈ろうではありませんか。