今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足らないものと私は考えます。(ローマ人への手紙8章18節)

1.イザヤ書43章1節ー7節
2.ピリピ人への手紙3章17節ー21節
3.コロサイ人への手紙3章3節ー4節
4.ヘブル人への手紙5章7節ー10節

イエス様はどれほどの苦しみにあうかをご存知だっただけでなく罪人バラバの身代わりになって十字架につけられることもご存知であったがゆえに、ご自身を一粒の麦にたとえられてから「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からお救いください。』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現してください。」と葛藤しながらも与えられた使命を果たす覚悟をされて言われたのではないでしょうか。すると、天から「わたしは栄光をすでに現したし、また現そう。」という声があったのでした(ヨハネの福音書12章27節―28節)。その栄光は「復活」でした。イエス様は弟子たちに「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。(ヨハネの福音書16章33節)」と仰せられました。キリスト者だからこそ苦悩することがありますが、すべての人はこの世に生きている限り、喜ぶときもありますが、思い煩ったり、心配したり、恐れたり、後悔するようなことをして苦悩する時間の方が多いかもしれません。しかも、すべての人を待ち受けているのは死ですが、その時こそキリスト者は贖われているがゆえに主と同じ栄光の姿に変えられるのです。この世で生きられるのは長くて120年で、永遠の尺度から見たら見えないほどの時間で、その栄光はすべてのキリスト者に与えられる永遠の栄光であるために(ペテロの手紙第一5章10節)、パウロは「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足らないものと私は考えます。」と、語ったのではないでしょうか。死後、神のさばきに会うこともなく、すでに永遠の死、すなわち昼も夜も悪魔やにせ預言者たちと永遠に苦しみ続けるような将来から贖われていることを、いろいろな苦しみさえも益としてくださる主を崇め、永遠の栄光が待っていることを感謝して生きようではありませんか。