この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ人への手紙12章2節)
1.サムエル記第一15章16節―22節
2.エペソ人への手紙5章3節ー17節
3.テモテへの手紙第一2章1節―3節
4.ヨハネの手紙第一2章15 節ー17節
今日の聖j句は、世の人々とは異なった生き方をするように勧めていますが、そのためにはまず神がどのような方であるかを知るとともに、この世が与えるものは何なのかを理解する必要があるのではないでしょうか。世の人々は恵みとまことに満ちておられるキリストをご存知ないので、パウロが「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスを求めていません(ピリピ人への手紙2章21節)」と語っているように、欲に支配されているために自己満足を求めて生きているのではないでしょうか。主から「あなたに何を与えようか。願え。」と仰せられたソロモンは主を愛していたので、自分の長寿や富、敵のいのちを求めたのではなく、聞き分ける判断力を求めたのですが、その願いは主のみこころにかなったものでしたので、主は知恵の心と判断する心を与えられただけでなく、彼が願わなかった富や誉れをも与えることを約束されたのでしたが、彼は神から与えられた知恵をもって、愚かさを身につけて、すなわち、この世の人々の生き方にならってこの世のすべての分野を見極めた結果、この世が与えることができるのは空しさであることを悟り「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間とってすべてである。」と結論づけたのでした。パウロは食べ物のことで兄弟をさばかないように勧めてから「キリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人にも認められるのです(ローマ人への手紙14章1節―19節)」と、また、すべての人のために、王や高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝をささげることは「私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることです。」と語っています。さまざまな願いが湧き上がって来た時、自分を喜ばせようとしているのか、神が喜ばれるかどうかを考えると良いことがどうかおのずとわかるのではないでしょうか。主がとりなしていてくださることを心に留めて、偶像崇拝をしている人々の心の目が開かれイエス様を求める心が与えられるように、上に立つ人が礼拝している神(霊)がその国を支配することを思う時、主のみこころであるならば国や国民のことを考えておられるクリスチャンである石破議員が立候補され、当選されるように総裁選のためにも祈ろうではありませんか。