謙遜と、主を恐れることの報いは富と誉といのちである。(箴言22章4節)
1.列王記第一3章3節―13節
2.箴言3章3節―18節
3.伝道者の書12章9節ー14節
4.ダニエル書4章9節―37節
人間関係にのみ心が奪われてしまうと、自分を他者と比較し、劣等感や優越感の間を行ったり来たりするのではないでしょうか。その結果、謙遜に振舞う時があるかと思うと、人を見下げるような高慢な態度をとってしまうように、相手によって態度が変わるような生き方をしてしまいますが、その根底には、神がアダムに「善悪の知識の木から取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と警告したにもかかわらず、神のことばよりも、自らが高ぶって天から落とされた悪魔の「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」ということばを信じて食べたことによって、人は大なり小なりプライドや高ぶりをもって生きる者になってしまったのではないでしょうか。ずいぶん前になりますが、ある教会で、キリスト教を背景に持つ集会で「おどろくばかり」を演奏し、主人が「ハレルヤとアーメンを歌詞にして賛美しましょう」と促したので、集われた方々が喜んで賛美をしたのですが、その後でクリスチャンかどうか存じませんが、レコード大賞を授与された女性がテレビでは非常に謙遜に話されていたにもかかわらず、ご自分の持ち歌を歌う前にまず「皆様、歌はそんなに簡単に歌うものではありません。」と言われた第一声に、高ぶりと強い競争心に驚かされました。高ぶりの原因は天地万物を創造された神をご存知ないか、キリスト者でも世の人々と同じように自分の思いや考え、感情に支配されて主を忘れてしまうときに起こるのではないでしょうか。神を恐れる、すなわち神がどんな偉大な方であるかを、十字架の死にまで従われたイエス様のことを思う時、主の前におのずから自分を低くし、卑下ではなく、まことの謙遜さの中に生きることができるのではないでしょうか。卑下は劣等感が根底にあるために高ぶりが同居しているように思わされます。今日の聖句「謙遜と、主を恐れることの報いは富と誉といのちである。」を心に据えて、この世が与えることのできない資産が天に蓄えられ(ペテロの手紙第一1章4節)、天にあるすべての霊的祝福という富が(エペソ人への手紙1章3節)、神からの誉が(ペテロの手紙第一 1章7節)、永遠のいのちが与えられているのは父なる神の愛と恵みとまことを実現してくださったイエス様によるものであることを心に据えて、まことの謙遜さを身につけて生きようではありませんか。