私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。(詩篇62篇1節)
1.詩篇37篇5節―7節
2.伝道者の書5章1節―2節
3.イザヤ書30章15節ー18節
4.哀歌3章22節―26節
イスラエルの民は多くの奇蹟を体験しながらも、モーセが「あなたがたは、私たちの神、主が私たちに与えようとされているエモリ人の山地に来た。見よ。あなたの神、主は、この地をあなたの手に渡されている。上れ。占領せよ。あなたの父祖の神、主があなたに告げられたとおりに。恐れてはならない。おののいてはならない。」と勧めたのですが、民の「私たちより先に人を遣わし、私たちのために、その地を探らせよう。私たちの上って行く道や、入って行く町々について、報告を持ち帰らせよう。」という意見に同意したので(申命記1章20節―22節)、主はモーセに族長を遣わすように助言されたのでした。モーセは主の仰せに従って族長たちを遣わしましたが、約束の地がどのようなもので、どんな民族が住んでいるかという情報を主からいただいていたにもかかわらず(出エジプト記3章8節)、その地がどんな状態か、どんな人が住んでいるのか、果ては「その地のくだものを取って来なさい。」と言って遣わしたのでした。その結果、ヨシュアとカレブ以外の者は神がどのような方であるかを忘れ、自分たちよりも背の高いアナク人を恐れ約束の地について悪く言いふらしたために「エジプトの地で死んでいたらよかったのに、できれば、この荒野で死んだほうがましだ。」とつぶやいただけでなくヨシュアとカレブを石で打ち殺そうとしたので、主はヨシュアとカレブ以外の二十歳の以上の者、モーセも約束の地に入ることができないことを告げたのでした(民数記13章1節―14章29節)。その経験からヨシュアはエリコに対する主の戦略を祭司や民に告げましたが、彼がときの声をあげよと言うまでは、ことばを出さずに黙って主から言われたとおり行動することを民に告げたのでした(ヨシュア記6章2節―10節)。コロナの感染者の数が増加していることや医療現場の状態が毎日報道され、確かに大変な状態にあることは事実だと思いますが、状況にばかり目を留めてしまうと、信仰を失わせるような恐れに支配され、神がどのような方であるかを忘れ、正しい判断ができなくなってしまうのではないでしょうか。世の人々と同調して恐れに支配されないように、パウロが「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。(テモテへの手紙第二4章2節)」と勧めているように、このような時だからこそ今日の聖句「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。」を心に据えて、主の前に静まって主からの平安と力をいただくだけでなく、神から知恵をいただいて宣教の働きを進めようではありませんか。昨年、コロナ禍の中にあっても教団全体で約200人の方が洗礼を受けられたことをその教団の牧師先生から伺いました。