しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現されるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(コリント人への手紙第二12章9節)
1.ヨシュア記1章1節―9節
2.サムエル記第一30章1節―19節
3.歴代誌第二20章1節―24節
4.コリント人への手紙第二12章1節ー10節
かつて「勝ち組」ということばが流行りましたが、その基準は格差社会において優位な立場にある人たちのことを言うようで、成功した人たち、競争に勝った方々のことを指すようですが、伝道者の書9章11節―12節は、「日の下」、すなわちこの世にあっては、自分の力、能力、知識、富が豊かで、勝ち組と言われるような人が、一瞬のうちに負け組になる可能性があること、すなわち、この世は保証を与えることができないことを語っています。今日の聖句「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現されるからである。」は、パウロが肉体に与えられたとげを去らせてくださるように主に三度願った結果、主から与えられた答えでした。主はモーセの後継者ヨシュアに「強く雄々しくあれ」と二度、三度目には「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。」と仰せられましたが、それはヨシュアが弱さを覚えていたからではないでしょうか。ダビデも、ヨシャパテも、自分の弱さを覚えるとき、主に助けを求めると主は大勝利を与えられました。パウロは自分のみじめさを知るとともに、キリスト・イエスにある神の愛から引き離すものはないことを確信したのでした(ローマ人への手紙7章24節及び8章38節ー39節)。パウロが「私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」と告白できたのは神の愛とキリスト・イエスにあって実現した恵みを深く知ったからではないでしょうか。弱さを覚える時、自分を負け組の一員のように思って自分の弱さを嘆くのではなく、弱さは、自分にギブアップし、十字架で示された神の愛と、恵みを思い起こさせ神の力であるキリストに拠り頼むという信仰に導くことを心に据えて、弱さをも感謝して生きようではありませんか。