キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。(ヘブル人への手紙10章14節)

1.マタイの福音書517節ー20
2.ローマ人への手紙323節―30
3.コリント人への手紙第一44節―5
4.エペソ人への手紙2章1節―9節

イエス様は弟子や人々に「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。(マタイの福音書5章20節)」と仰せられました。律法学者やパリサイ人の中にもイエス様を信じた方々がおられましたが、彼らの多くは自分を義人だと自任して、他の人を見下していただけでなくイエス様に敵意を持っていましたが、イエス様が、心の中で「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようでないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」と祈ったパリサイ人よりも、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」と祈った取税人の方を神は義と認められるのであって、パリサイ人ではない(ルカの福音書18章9節―14節)、と言われたことから大切なのは自己評価ではなく神の評価であることがわかります。パリサイ人であった時のパウロは神の義を知らずにキリスト者を迫害していましたが、キリスト者となった彼は、イエス様がとりなしていてくださるのでキリスト者が罪に定められることがないこと、どんな出来事もキリスト・イエスにある神の愛から引き離すことができないことを確信していると語っていますが(ローマ人への手紙8章33節―39節)、それは今日の聖句「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。」を本当に理解していたからではないでしょうか。ことばや行いで間違いをしたとき、自己嫌悪に陥るよりも、すべてを益とすることのできる主に心のうちをすべて申し上げて主のあわれみを求めるとともに、神の前には義人とされている恵みを感謝して生きようではありませんか。