もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。しかし、確かに、神は聞き入れ、私の祈りの声を心に留められた。ほむべきかな。神。神は、私の祈りを退けず、御恵みを私から取り去られなかった。(詩篇66篇18節―20節)

1.サムエル記第二712節―16
2.ヨハネの福音書11節―17
3.ローマ人への手紙517節―21
4.ヘブル人への手紙4章14節―16節

イエス様は自分を義人と自任し、他の人々を見下している者たちに対して「パリサイ人は、立って心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようでないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。(ルカの福音書18章9節―14節)」とたとえ話をもって、罪人かどうかを決めるのは人ではなく神であることを、罪や不義があっても神の前にへりくだるなら、神はお聞きくださることを話されました。今日の聖句「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。しかし、確かに、神は聞き入れ、私の祈りの声を心に留められた。ほむべきかな。神。神は、私の祈りを退けず、御恵みを私から取り去られなかった。」はダビデのことばです。彼は自分の思いや情欲によってさまざまな罪を犯しましたが、その都度、主に立ち返ると主が約束されたように恵みを取り去ることなく解決お与えになったのでした(サムエル記第一30章1節―8節)。キリスト者になったパウロは自分の中に罪があることを悩みましたが「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」と語るとともにキリスト・イエスにある神の愛から、どんな被造物も私たちを引き離すことはできないことを確信されましたが(ローマ人への手紙8章34節ー39節)、それは恵みを深く知ったことによるのではないでしょうか。ダビデのようにいつも恵みとまことに満ちておられるイエス様をほめたたえようではありませんか。