主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つとなっている人々に御力をあらわしてくださるのです。(歴代誌第二16章9節)
1.列王記第一8章52節―61節
2.エゼキエル書36章24節―27節
3. ヨハネの福音書3章1節ー7節
4.コリント人への手紙第一2 章7節―16節
パウロはエペソの聖徒たちに「神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるのかを、あなたがたが知ることができますように。神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座につかせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。(エペソ人への手紙1章19節―22節)」と、キリストを死者の中からよみがらせた力と同じ力がキリスト者個人においても、教会にも与えられていること、キリスト者はこの世に属する者ではなく、世から贖い出され天に座する者とされていることを(エペソ人への手紙2章6節)語っています。ところで、今日の聖句は「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つとなっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」と、神の力が働くために必要なのは主と心が一つとなっている必要があることを語っています。ダビデは自分の考えや感情に支配され、さまざまな罪を犯しましたが、イエス様は「ダビデの子」と言われますし、使徒の働き13章22節は「わたしはエッサイの子ダビデを見いだした。彼はわたしの心にかなった者で、わたしの心を余すところ実行する。」と語っています。サウルとダビデの違いは罪を犯した時に心から主に立ち返ったかどうかにあるのではないでしょうか。サウルはサムエルに「私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください。どうか私といっしょに帰って、あなたの神、主を礼拝させてください。(サムエル記第一15章30節)」と、「あなたの神」と言い、ダビデのように「私の神」と言わず、罪を認めても自分の面目を保つことに心が向いていたのでした。パウロは「死者の中からよみがえったイエス・キリストを思っていなさい。(テモテへの手紙第二2章8節)」と勧めています。ダビデのように、信仰の完成者であり神の力を明らかにされたイエス様、主に心を向けて神からの力をいただこうではありませんか。