わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。」(ヨハネの福音書12章46節)
1.ヨハネの福音書1章1節―5節
2.ヨハネの福音書3章16節―21節
3.ヨハネの福音書8章12節
4.ヨハネの福音書12章34節―36節
今日の聖句「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。」は、イエス様がこの世に来られた目的を語っています。イザヤ書8章22節−9章2節は「地を見ると、見よ。苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒、追放された者。しかし、苦しみにあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地住んでいた者たちの上に光が照った。」と語った後のイザヤ書9章6節は「ひとりのみどり子が、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」と、やみをなくしてくださるのはイエス様であることを語っています。ところで、創世記1章3節に「神は仰せられた。『光あれ。』すると光があった。」と、神の第一声は「光があれ」であり、光が存在してから、すべてのものを創造され、神はお造りになったすべてのものを見られると「それは非常に良かった。(創世記1章31節)」とあるにもかかわらず、この地が「苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒、追放された者。」と、なってしまった原因は、神の警告のことばをなおざりにして悪魔のいつわりのことばを信じて善悪の知識の木から食べたこと、すなわち罪がもたらしたものですが、イエス様は罪を取り除くためにこの世に遣わされたのでした。キリスト者でもさまざまな過ちを犯しますが、ヘブル人への手紙10章14節及び17節―18節は「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。『わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。』これらのことが赦されるところでは、罪のささげ物はもはや無用です。」と語っています。主は罪に定められないようにとりなしていてくださるだけでなく、罪の中にとどまり続けることがないようにお導きくださる主がいつもともにおられることを感謝するとともに、そのために主がどれほど苦しまれたかを心に据えて主が喜ばれるように生きようではありませんか。