すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。(エペソ人への手紙6章18節)

1.使徒の働き131節―3
2.ローマ人への手紙818 節―27
3.コリント人への手紙 第一141節―19
4.ユダの手紙17節―20節

パウロは「もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈るが、私の知性は身を結ばないのです。ではどうすればよいのでしょう。わたしは霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう。・・・私は、あなたがたのだれよりも多く異言を話すことを神に感謝していますが、教会では、異言で一万語話すよりは、ほかの人を教えるために、私の知性を用いて五つのことばを話したいのです。(コリント人への手紙第一14章14節―15節及び18節―19節)」と異言の祈りについて、異言をどのように用いるべきかの留意点も語っています。今日の聖句は、悪魔の策略に立ち向かうために神の武具を身につけることを勧めていることを考慮すると(エペソ人への手紙6章10節―17節)、今日の聖句「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」が勧めている「御霊によって祈る。」ということは、異言は御霊によって与えられている方とそうでない方がおられるので(コリント人への手紙12章10節)、異言で祈ることよりも、パウロが「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。(ガラテヤ人への手紙5章16節―17節)」と、ヤコブが「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです(ヤコブの手紙4章3節)」と語っているように、祈りの動機にかかわることを語っているのではないでしょうか。パウロは祈る時「絶えず目をさましていて」と勧めていますが、ペテロも「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。(ペテロの手紙第一5章8節−9節)」と語っています。御霊は神の御心を示してくださいますし、とりなす力も与えてくださいます。悪魔は高ぶらせるようにしますから、兄弟姉妹のために祈る時、上からの目線で祈るようなことをしてしまう可能性があるのではないでしょうか。兄弟姉妹のために祈る時、動機に気をつけて祈ろうではありませんか。