主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。(箴言9章10節)
1.エレミヤ書9章23節―24節
2.ルカの福音書23章33節―43節
3.コリント人への手紙 第一1章18節―30節
4.エペソ人への手紙1章5節―17節
パウロはキリスト者を迫害していましたが、ダマスコの途上でイエス様から「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」と声をかけられたので、「主よ。あなたはどなたですか。」と尋ねると、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」という答えが返ってきたので、待ち望んでいたメシアがイエス・キリストであることを知りキリスト者となったパウロは、「私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵はこの世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められていたものです。この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。(コリント人への手紙第一2章6節―8節)」と語っていますが、それはまさしく今日の聖句が「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。」と語っていることに通じるのではないでしょうか。十字架にかけられたふたりの犯罪人のひとりはイエス様に悪口を言いましたが、もうひとりは「おまえは神をも恐れなのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」と彼をたしなめてから、イエス様に「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と申し上げると、イエス様は「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と仰せられたのでした。ふたりの犯罪人はイエス様が人々のためにとりなして祈る祈りを聞いていたでしょう。同じ状況にいながら、イエス様に対する態度の違いは、主を恐れる、すなわち心から神を敬うかどうかに関わってくるものであり、そのためには主がどのような方であるかを認識することが不可欠なのではないでしょうか。イエス様は恵みとまことを実現された方であり、私たちにとっては神の知恵であることから(コリント人への手紙第一1章24節)、まことの「知恵」は、恵みを知ることで、そのことこそが、主を恐れる、すなわち心から神を敬う生き方に導くのではないでしょうか。恵みに満ち、信仰の完成者であるイエス様がいつも一緒にいてくださることを忘れないようにしようではありませんか。