私たち、すなわち、私とシルワノとテモテとが、あなたがたに宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、「しかり」と同時に、「否」であるような方ではありません。この方には「しかり」だけがあるのです。神の約束はことごとく、この方において「しかり」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン」と言い、神に栄光を帰するのです。(コリント人への手紙第二1章19節−20節)
1.イザヤ書55章6節―11節
2.マタイの福音書5章17節ー18節
3.ローマ人への手紙15章8節
4.ヘブル人への手紙6章13節―20節
イエス様は「人の子が栄光を受けるその時が来ました。」と言われてから、ご自身を一粒の麦にたとえられて「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」と言われましたが「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現してください。」と、また、ゲッセマネの園においても「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください、しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。(マルコの福音書14章36節)」と祈られてから再び「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」と父なる神に申し上げると御使が天からイエス様に現れてイエス様を力づけられましたが、いよいよ切に祈られ汗が血のしずくのように地に落ちるほどイエス様は苦しみもだえて祈りましたが、祈り終わられると、立ち上がられ、人々から、あざわられたり、からかわれたり、むち打たれたり、悪口を言われても「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカの福音書23章34節)」ととりなして祈られ、聖書が成就すえるために「わたしは渇く」と言われ、差し出された酸いぶどう酒を受けられると「完了した」と、そして大声で「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」と言って息を引き取られ、今日の聖句が「私たち、すなわち、私とシルワノとテモテとが、あなたがたに宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、「しかり」と同時に、「否」であるような方ではありません。この方には「しかり」だけがあるのです。神の約束はことごとく、この方において「しかり」となりました。」と語っているように、イエス様は与えられた使命を、聖書の預言を成就するために十字架の死にまでも従われ救いの道を開かれたのでした。バッハは作品の最後に「S.D.G(Soli Deo Gloria)=神の栄光のみ」と書かれました。私たちを救うために、みことばを成就するためにご自身をささげられイエス様のことを考えて、たましいを救うことのできるみことばをすなおに受け入れ(ヤコブの手紙1章21節)、主に栄光を帰す生き方をしようではありませんか。