罪を犯した者は、その者が死に、子は父の咎について負いめがなく、父も子の負いめがない。正しい者の義はその者に帰し、悪者の悪はその者に帰する。(エゼキエル書18章20節)

1.申命記2416
2.エレミヤ書3123節―30
3.ヨハネの福音書91節−12
4.ヘブル人への手紙12章2節

昨日、週刊文春が菅総理の息子さんが総務省幹部を接待した記事があると報じたことが国会で取り上げられ、菅総理が糾弾されている様子を見ながら、いまだに子の失態を親と結びつける傾向があることを思うとともに、今日の聖句「罪を犯した者は、その者が死に、子は父の咎について負いめがなく、父も子の負いめがない。正しい者の義はその者に帰し、悪者の悪はその者に帰する。」を思い起こしました。主は「あなたがたは、イスラエルの地について、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く』という、このことわざをくり返し言っているが、いったいどうしたことか。わたしは誓って言う。―神である主の御告げーあなたがたはこのことわざを、イスラエルで、もう決して用いないようになる。見よ。すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、このいのちもわたしのもの、罪を犯した者は、そのものが死ぬ。(エゼキエル書18章1節―3節)」と、子の罪を親が負ったり、親の罪を子が負ったりすることないことを語るとともに、罪の支払う報酬は死であることを語っています。ところで、パウロは「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉をうけることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、値なしに義と認められるのです。(ローマ人への手紙3章23節―24節)」と、すべての人に贖いを成就してくださったイエス様が必要であることを語っています。興味深いことに、十字架にかけられたイエス様は酸いぶどう酒を受けられてから「完了した。」と言われて息をひきとられたのですが(ヨハネの福音書19章30節)、それは、贖いが成就したことを意味することであり、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く』ということわざを終わらせてくださったのではないでしょうか。キリスト者も気をつけないと世の人々と同じような考えで、教職者や教会の役員の子どもさんが信仰をもっていないと非難してしまうようなことをするのではないでしょうか。信仰はイエス様によって与えられることを、すべてのキリスト者の願いは家族がキリスト者になることであることを心に据えてお互いの家族のために祈ろうではありませんか。