あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。(ペテロの手紙第一1章7節)

1.詩篇11965節―72
2.ヘブル人への手紙11章17節ー19節
3.ヤコブの手紙12節―8
4.ペテロの手紙第一412節―19

多くの苦難や苦悩を経験しているパウロはキリスト者であってもそうでなくても人は試練に会う事、私たちが耐えられないと思っても、その試練を耐えられるかどうかは神の方がよくご存知であるだけでなく、脱出の道も備えておられることを語っているように(コリント人への手紙第一10章13節)、アブラハムは神が後継として約束されたイサクを捧げるような試練を与えると、アブラハムは翌日イサクをともなって神が指定されたモリヤの地に旅立ちましたが、途中イサクから「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」と尋ねられると「イサク。神ご自身が全焼のいけにえを備えてくださるのだ。」と答え、イサクを捧げようとしたとき天から「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」と仰せられ、一頭の雄羊をご用意されていたのでした。試練は、何を信じ、何を拠り頼んで生きているかを明らかにする働きとともにイスラエルの民が神に背を向けると試練が臨みましたが、苦難の中で主を求めると主は必ず救い出してくださったように、神の愛や恵みの深さを知る働きをも兼ね備えているのではないでしょうか。試練に会っている時には苦しかったり悲しかったりしますが、そのような時こそ今日の聖句「あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」を思い起こし、金が純金になるために火で精錬されるように、主が私たちの信仰を練り聖めようとされていることを思い起こそうではありませんか。