あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。(ヨハネの福音書15章7節)

1.ヨハネの福音書1619節―24
2.ローマ人への手紙第1311節―14
3.ガラテヤ人への手紙5章16節ー24節
4.ヨハネの手紙第一55節―15

イエス様が十字架の死と復活について話されたとき、ゼベダイの子たちの母がふたりのこどもといっしょにイエス様のもとに来て「私のふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」という願いをイエス様に申し上げると、イエス様は「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」と言われたのですが、ふたりの息子たちは「できます」と答えたので、イエス様は「あなたがたはわたしの杯を飲みはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです。」と言われたのですが、「そのことを聞いたほかの十人は、このふたりの兄弟のことで腹を立てた。(マタイの福音書20章18節―24節)」とあるように、肉による願い事は問題を引き起こすのではないでしょうか。しかし、聖霊に満たされた弟子たちはだれが一番偉いかなどという肉の思いから解放されたのでした。今日の聖句「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」はイエス様のことばであり、約束のことばですが、願いがかなえられるためには、キリストにとどまっているかどうか、みことばにそった願いであるかどうかを吟味する必要があることを語っています。肉の欲に支配されないために、十字架につけられたイエス様を、ガラテヤ人への手紙5章24節「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉をさまざまな情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」を思い起こして、「何でもあながたのほしものを求めなさい」がひとり歩きをしないように気をつけようではありませんか。