あなたに向かって、私は目を上げます。天の御座に着いておられる方よ。(詩篇123篇1節)
1.ヨハネの福音書1章14節―17節
2.ローマ人への手紙8章31節ー39節
3.コロサイ人への手紙2章20節ー3章4節
4.黙示録1章9節―18節
ヨハネの福音書3章16節ー17節は「神は、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神は御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」と語っていますが、それは、全く罪のない御子を罪人バラバの代わりに十字架につけるという人には考えられられない、道理に反するような方法でした。十字架にかけられたイエス様に対してユダヤ人の指導者たちはあざ笑って「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」と言いましたし、兵士たちもあざけり、イエス様のそばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出して「ユダヤ人の王なら、自分を救え」などと言ったのでしたが、主は彼らには応答せず、かえって人々のために「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしていうのか自分でわからないのです。」とりなして祈られたのでした。十字架上の主は力のない者のように見えましたが、神はイエス様を死からよみがえらせ死に勝利されたいのち、永遠のいのちを明らかにされたのでした。イエス様は、現在、父なる神の右に座して私たちのためにとりなしていてくださるのですが、その姿は十字架で苦しまれたような弱々しい姿ではなく、勝利者としての姿であることが黙示録1章13節―18節に描写されています。この世に生きている限りさまざまな失敗をしますが、その時には恵みの座に出て十字架の恵みを思い起こし、さまざまな願いや祈りをささげる時には今日の聖句が「あなたに向かって、私は目を上げます。天の御座に着いておられる方よ。」と、語っているように、祈る時には天を仰いで、天の御座に着いておられる力だけでなく恵みとまことに満ちておられる復活の主に祈りをささげていることを忘れずに祈ろうではありませんか。