さて、祭りに終わりの大いなる日に、イエスは立って大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になって受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。(ヨハネの福音書7章37節―39節)

1.イザヤ書122節―5
2.ヨハネの福音書43節―14
3.黙示録79節ー17

創世記1章1節―5節は「初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。「光あれ。」すると光があった。神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり朝があった。第一日。」と、動植物や人が創造される前に、まず存在したのは「神の霊、水、光」でした。ところで、神は人をご自身のかたちとして創造され(創世記1章27節)、創世記2章7節が「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」と、同章19節が「神である主は土からあらゆる野の獣と空の鳥を形造り、それにどん名を彼(アダム)がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。」と語っているように、人は他の被造物と違って神の息が与えらているのですが、神が禁じた善悪の知識の木から取って食べたことによってパウロがイエス様を信じる前の状態を「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって(エペソ人への手紙2章1節)」と生きているエペソの聖徒たちに語っているように、霊的に死んでしまっている状態であったことを語っています。ですから、人は心の飢え渇きを覚えるのではないでしょうか。今日の聖句が語っている祭りは、仮庵の祭りで、主がイスラエルの民をエジプトから導き出されたことを、荒野を旅するとき岩から水を二度も出されたこと思い起こす喜びの祭であり、祭りの最後には大祭司が祭服を着て金の柄杓をもってシロアムの池から汲んだ水を神殿に向かって運ぶものですが、そのときに主は「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」と、聖書、すなわちイザヤ書12章3 節「あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。」がイエス様が成就されることを語っています。世全体を支配している悪魔は神よりもこの世に目を向けさせようとしますが、キリスト者はこの世や悪魔の支配、生まれながらの古い自分から贖われたものであり、恵みによって神から私たちに賜ったものを私たちが知るために御霊が与えられていることを(コリント人への手紙 第一2章12節)、救いも永遠のいのちも与えられていることを喜んで感謝すると共に、福音が多くの方々に届くように祈ろうではありませんか。