ほむべきかな。神、主、イスラエルの神。ただ、主ひとり、奇しいわざを行う。(詩篇72篇18節)
1.イザヤ書53章1節―12節
2.ヨハネの福音書15章22節―16章7節
3.ローマ人への手紙7章20節ー8章3節
4.コリント人への手紙 第一 15章3節―11節
イザヤ書46章5節―7節が「わたしをだれになぞらえて比べ、わたしをだれと並べて、なぞらえるのか。袋から金を惜しげなく出し、銀をてんびんで量る者たちは、金細工人を雇って、それで神を造り、これにひざまずいて、すぐ拝む。彼らはこれを肩にかついで運び、下に置いて立たせる、これはその場からもう動けない。これに叫んでも答えず、悩みからも救ってもくれない。」と、人の知恵によって造られた神々は人々を助けることができない力のないものですが、パウロが「人々が偶像にささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている(コリント人への手紙第一 10章20節)」と語っているように、偶像の背後に悪霊の存在や働きがあることを語っています。悪魔はイエス様にこの世のすべての国々とその栄華見せて「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」と誘惑したように、悪魔は自分を拝むように仕向けるのですが、それは悪霊にしてもしかりです。悪魔はもとは神に仕える天使長でしたが、神に創造された被造物でありながら、創造者である神のようになろうと高ぶったために天から地に落とされたのですが、その時、御使いの1/3も悪魔とともに地に投げ落とされ、悪霊となったのでした。悪魔や悪霊は人が創造される以前にすでに天に存在していたために、人よりも力があります(黙示録12章1節−9節)。ですから、エジプトの呪法師たちは彼らの秘術を使って、神がモーセとアロンを用いて行った奇蹟と同じようなことをある程度することができましたが、彼らはぶよを出すことができず、パロに「これは神の指です。」と言ったように悪霊の力には限界があることがわかります(出エジプト記8章1節―19節)。ですから、お稲荷さんはじめさまざまな宗教でも不思議なことが起きるので、人々は偶像崇拝を離れることができないのではないでしょうか。しかし、今日の聖句が「ほむべきかな。神、主、イスラエルの神。ただ、主ひとり、奇しいわざを行う。」と語っているように、まず、神は御子イエス様を人としてお遣わしになるために、聖霊によって処女マリアの胎に宿らせて誕生させられ、十字架の死と復活をもって、罪や死の解決を与えただけでなく、永遠のいのちを明らかにされ、人々に生ける希望を与えられたのでした。キリスト者とされている恵みを感謝するとともに、無神論者や偶像崇拝をしている世界中の人々の心の目が開かれ、創造者なる神を知ることができるように、福音宣教の働きを主が祝福してくださるように祈ろうではありませんか。