神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ書30章15節)

1.詩篇21節―12
2.詩篇461−11
3.イザヤ書4027節―31

イスラエルの民は多くの奇跡を体験しながらも、モーセが山から降りてくるのに手間取っているのを見て、アロンに「私たちに先立って行く神を造ってください。」と言ったので、アロンは彼らの金のイヤリングをもって金の子牛を造って真の神を知らない世の人々と同じように偶像崇拝をしてしまいましたが、それは繰り返しなされたものでした。サムソンの時代には民は主に助けを求めるのではなくペリシテ人が自分たちの支配者であることを認めるような生き方をして、サムソンを探しにきたペリシテ人と一緒になってサムソンを探し、主がイスラエルの救いのために遣わされたサムソンをペリシテ人に引き渡すようなことをしたのでした。パウロは「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ人への手紙12章2節)」と、まことの神を知っているキリスト者は、この世の人々の価値観や生き方に同調して生きないように警告しています。近年、人の知恵による心理学の見地からの聖書解釈やみことばを文脈で読むのではなく、イザヤ書43章4節の「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」の「高価で尊い」のは贖いあってのことであるにもかかわらず、4節の後半の「だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」が完全に無視されたようなことが、十字架が軽視されるようなことがありました。今はコロナで宣教の働きがとどめられていますが、今日の聖句が「神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」と語っているように、人の知恵に惑わされていたことを悔い改め、主に立ち返る時であり、リバイバルのために祈り備える時なのではないでしょうか。人ではなくまず主が喜ばれるように生き、豪雨によって被災された被災地の人々の救いのために、被災地の教会や兄弟姉妹のために祈ろうではありませんか。