あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ人への手紙2章8節―9節)

1.ルカの福音書2339節―43
2.使徒の働き261節―23
3.コリント人への手紙 第一 153節―10
4.コロサイ人への手紙1章3節ー6節

パウロはパリサイ人として律法による自分の義に生きていたときには、他のユダヤ人と同じようにナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考え、祭司長たちから与えられた権限をもってキリスト者を迫害していたのですが、ダマスコへの途上でイエス様から声をかけられ、主に仕える者、キリストの証人として福音宣教の働きをする使命が与えられ、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」と救いの真髄を語る者、「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。(テモテへの手紙 第一2章4節)」と神のみこころを知る者となったのでした。救いが行いによるのであれば、罪や失敗を犯さない人はひとりもいないのですから、すべての人が救われる可能性は皆無ですが、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と十字架にかけられた犯罪人のひとりのことばに、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と答えられたイエス様のことばに、救いは行いによるのではないことが明白です。ところで、ヤコブの手紙2章には「信仰も、行いがなかったなら、それだけでは死んだものです。」とか「人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう」とか「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。」などとありますが、それは恵みによって救われた後の生き方を語っているのであって、イエス様を信じて洗礼を受けてはいるけれども自分は救われているかどうかわからないような不安にかられる必要はないのではないでしょうか。行いがともなう信仰の秘訣は「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。(コリント人への手紙 第一15章10節)」と語る恵みに生き抜いたパウロのことばに見ることができるのではないでしょうか。恵みはイエス様によって実現しましたが、そのためには十字架の犠牲があったことを心に留め、パウロ のように恵みをむだにしないように生きようではありませんか。