私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。(マタイの福音書611節)

1.箴言307節―9
2.マタイの福音書41節―4
3.マタイの福音書77節―11

イスラエルの民は数々の奇蹟を体験して神がどんな偉大な方であるかを目にしたにもかかわらず、激しい欲望にかられた民のうちに混じってきていた者といっしょになって民も「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。」と、主に自分たちの願いを申し上げたのではなく、泣いてつぶやいたのをご存知な主は、肉を食べさてくださることを、しかもそれは「1ヶ月もであって、ついにはあなたがたの鼻から出て来て、吐き気をもよおすほどになる。それは、あなたがたのうちにおられる主をないがしろにして、御前に泣き、『なぜ、こうして私たちをエジプトから出てきたのだろう』と言ったからだ。」と仰せられて、うずらを与えられましたが、欲望にかられた民を打たれたのでした(民数記11章1節ー33節)。彼らはエジプトから主が導き出され、主がモーセを用いて約束の地に導こうとされているにもかかわらず、主と主の約束のことばをないがしろにしたのでした。イエス様はピリポに「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」と尋ねると、ピリポは「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」と答えると、イエス様は感謝してから五つのパンと二匹の魚で五千人を養われたのです(ヨハネの福音書6章1節―13節)。一方、四十日四十夜断食された後で空腹を覚えられたイエス様に悪魔が「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」と言いましたが、イエス様は「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつのことばによる』と書いてある」と仰せられ、欲と悪魔に勝利したのでした。イエス様は「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。(ヨハネの福音書6章35節)」と仰せられただけでなく、神の国とその義をまず第一に求めるなら、日常生活に必要な衣食住は添えて与えられることを約束されたのでした(マタイの福音書6章26節―33節)。ダビデは「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。(詩篇23篇1節ー2節)」と、主は導き手であり、心の平安を与えてくださる方であり、すべての必要を満たすことのできる方であることを語っています。イエス様はご自身のことを良い牧者と仰せられました。今日の聖句「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」はイエス様が教えてくださった祈りであり、そこには「日ごと」とあるのですから、日曜礼拝のときだけでなく、毎朝「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」と祈り、イエス様を「私の牧者」と認識して信頼し、ダビデ のように心を尽くして主に拠り頼んで(箴言3章5節)生きようではありませんか。