別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」(ルカの福音書9章61節―62節)

1.エズラ記3章8節―13
2.イザヤ書4316節―21
3.ピリピ人への手紙32節ー15

主はソドムとゴモラのからロトとその家族を救うために御使を遣わされ、「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこにも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされます。」と忠告したのにもかかわらず、ロトの妻は振り返ったので塩の柱になってしまったのでした(創世記19章12節―26節)。主はイスラエルの民がエジプトで苦しんでいるのを見て、モーセを遣わし、数々の奇蹟をもってエジプトから導き出されたのですが、神は「民が戦いを見て、心が変わり、エジプトに引き返すといけない」と仰せられ、近道であるペリシテ人の道に導かれず、紅海に沿う荒野の道に回らせ、後方から追ってくるエジプトの手から救うために紅海の水を分けられ、民が対岸に渡り終えたときに水を元に戻し、エジプト人を一人残らず溺死させたのでした。そのことを見て民は神を恐れ、主を賛美したのですが、欲にかられたり、恐れを持ったりすると、民は神がどれほどの力を持っているかを体験したにもかかわらず、エジプトに戻ろうとし、神の怒りを招いたのでした。また、バビロンの捕囚から帰還した民は神の宮の基が据えられたとき、喜んで主を賛美し、感謝しながら「主はいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに」と大声で賛美したのですが、最初の宮を見たことのある祭司、レビ人、一族のかしらたちのうちの老人たちは、大声をあげて泣いたのでした(エズラ記3章10節―13節)。主は「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」と言った人に対し、「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」と仰せになられました。なぜなら、家族が反対したなら、主に従う決心が揺らいでしまう可能性があることをご存知だったからではないでしょうか。詩篇103篇は主が良くしてくださったことを忘れずに主をほめたたえるように勧めていますが、「昔は良かった」などと主をほめたたえるのではなく、過去の栄光を思い出して懐かしんだり、今を嘆いたり、自分の考えや感情に支配され主がどのような方であるかを忘れ、創造者なる神を知らないこの世の人と同調して生きるような中途半端な従い方をしないように主は願っておられるのではないでしょうか。キリスト者は罪や死だけでなく、この世から贖い出され、天に国籍を持つ者で、神の国に属する者であることを、そのためにどれほどイの犠牲が払われたかを自覚し、日々、信仰の完成者であるだけでなく、私たちの弱さをご存知で従うことに失敗してもとりなしていてくださり、従うことができるように導いてくださる、イエス様から目を離さずに御国を目指して生きようではありませんか。