人のごきげんとりのような、うわべの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。(エペソ人への手紙6章6節―7節)
1.マタイの福音書25章31節―46節
2.コロサイ人への手紙3章23節―24節
3.ヘブル人への手紙6章10節―12節
イエス様はだれが一番偉いかなどと論じ合っていた十二弟子たちに「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。(マルコの福音書9章34節―35節)」と、また「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを先生の左にすわらせください。」と、言ったヤコブとヨハネに、イエスが「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」と尋ねると、彼らは「できます。」と答えましたが、イエスさまは「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」と仰せられたのでした。そのことを聞いてヤコブとヨハネのことで他の十人が腹を立てたので、イエス様は「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間で偉くなりたいと思うものは、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。(マルコの福音書10章35節―45節)」と仰せられたのでした。パウロは「私はパウロにつく」「私はアポロに」と「私」に生きている、すなわち、自分を誇るような生き方をしているコリントの教会に、パウロが「私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見習ってください。」と、「人のごきげんとりのような、うわべの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。」と勧めているように、パウロと同じようにイエス様がどのように生きられたかを、信仰を完成させてくださるのもイエス様である事を心に据えて生きようではありませんか。