わたしは日の下に、痛ましいことがあるのを見た。所有者に守られている富が、その人に害を加えることだ。(伝道者の書4章13節)
1. マタイの福音書6章19節―33節
2.ルカの福音書12章13節―21節
3.エペソ人への手紙2章10節―3章11節
士師記21章25節が「そのころ、イスラエルに王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。」と語っているように、士師記の時代、民が神をないがしろにして自分勝手に生きると、主に立ち返らせるために、さまざまな民族がイスラエルを攻めることを主は許されたのですが、そのような状態になると民は神に助けを求めたので、主はさばきつかさを与え敵の手から救われたのでした。ですから、ルツ記1章1節「さばきつかさが治めていたころ、この地にききんがあった。それで、ユダのベツレヘムの人が妻とふたりの息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。」から、ルツ記の記事は士師記の時代であったことがわかります。夫エリメレクや二人の息子が亡くなり、息子のお嫁さんと生活していたナオミは主が民を顧みてパンを下さったのを聞いてベツレヘムに帰ったのですが、ナオミとお嫁さんのルツがベツレヘムに着くと、町中がふたりのことで騒ぎ出して「まあ。ナオミではありませんか。」と言った女性たちに、ナオミが「私をナオミ(意味:快い)と呼ばないで、ラマ(意味:苦しむ)と呼んでください。全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから。私は満ち足りて出て行きましたが、主は私を素手で帰されました。なぜ私をナオミと呼ぶのですか。主は私を卑しくし、全能者が私をつらいめに会わせられたのに。」と語ったことばに、今日の聖句「わたしは日の下に、痛ましいことがあるのを見た。所有者に守られている富が、その人に害を加えることだ。」が、裕福であったエリメレクの家族に起こったのですが、「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようになことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」と、イスラエルの神をご自分の神と告白したルツとともに主が与えられた地に戻ったナオミを主は祝福されたのでした。「日の下」、すなわち、神を考慮しないこの世の富は神を忘れさせてしまうような、富が神の代用品のようになってしまうような害を与えますが、キリスト者にはこの世が与えることのできないキリストにある測りがたい富が与えられていることを(エペソ人への手紙3章9節)、私たちの神はキリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、私たちの必要をすべて満たしてくださることを(ピリピ人への手紙4章18節)感謝して生きようではありませんか。