罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ人への手紙6章23節)
1.ヨハネの福音書3章16節―17節
2.ヨハネの福音書6章38節―51節
3.ヨハネの手紙 第一 5章5節―13節
人は肉体の死でその存在が消滅してしまうと考えておられる方もおられますが、ソロモンが「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠の思いを与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。(伝道者の書3章11節)」と語っているように、一般的に、葬儀で多くの方が弔辞を述べる時に「天国で安らかにお休みください。」と話されるように、肉体の死によってその人の存在は消滅しないこと、永遠の存在であることを知っているのではないでしょうか。ソロモンはさらに「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。悲しみは笑いにまさる。顔の曇りによって心は良くなる。知恵のある者の心は喪中の家に向き、愚かな者の心は楽しみの家に向く。(伝道者の書7章2節―4節)」と語っています。確かに、キリスト教の葬儀に参列された多くの方は感動を覚え、自分もキリスト教の葬儀をしてもらいたい、という願いを持つ人もおられるようです。他の宗教の葬儀とキリスト教の葬儀の違いは、今日の聖句が「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」と語っているように、死後に対する答えがあることによるのではないでしょうか。ヨハネは「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。(ヨハネの手紙 第一5章12節―13節)」とキリスト者が永遠のいのちを持っていることを自覚して生きて欲しいことを語っています。他のキリスト者と比較して「私には賜物がない」と言われる兄弟姉妹がおられますが、今日の聖句が語っているようにキリスト者は罪に定められることがなく(ローマ人への手紙8章1節ー2節)、神から与えられている最もすばらしい賜物は「キリスト・イエスにある永遠のいのち」であり、それはすべてのキリスト者に与えられていることを心に据えて、世の人々のように他者と比較するような生き方はしないようにしようではありませんか。