主は正義と公正を愛される。地は主の恵みに満ちている。(詩篇335節)

1.エレミヤ書2323節―24
2.マタイの福音書543節―45
3.コリント人への手紙 第一 153節―11

ヨハネの福音書1章18節が「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのです。」と語っているように、神を見たことがないので、パウロがアテネの人々に「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である』と言った通りです。そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。」と話されたように、人は自分たちの考えで、偉人やさまざまな動物の像を造ってそれを神としたリ、山岳信仰に見られるように、山を創造された神ではなく山を「ご神体」と言って拝むようなことをしているために、多くの人は神の本質を知らないでいるために、自分勝手な行動をしてしまいがちなのではないでしょうか。しかし、イエス様を神と認めず偶像崇拝している人々であっても、イエス様が「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。(マタイの福音書5章44節―45節)」と語っているように、人をかたよりみたり、えこひいきしたりするようなことのない神なのですが、今日の聖句が「主は正義と公正を愛される。地は主の恵みに満ちている。」と、語っているように「正義」だけでしたら、すべての人は罪を犯しているので、だれも生きていることができませんが、罪人を救うために御子イエス様をこの世にお遣わしになり恵みとまことを実現され神の愛を示されたように、その根底にあるものは「恵み」なのではないでしょうか。行いではなく恵みによって救われていることを感謝するとともに、「恵」を名前につけるだけでなく、「恵みの神」を知ることができるように祈ろうではありませんか。