また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いをする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。(マタイの福音書6章7節―8節)

1.ヨハネの福音書61節―14
2.ピリピ人への手紙19節―11
3.ヘブル人への手紙711節―28

イエス様は「あなたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。(ヨハネの福音書15章7節)」と、なんでもほしいものを求めるように勧めておられますが、そこには「あなたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、」という条件があります。ヤコブの手紙4章3節―4節も「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としちるのです」と、世と調子を合わせて生きていると、欲を満たすための願いごとになりかねないことを示しているのではないでしょうか。三人の友から彼の信仰を非難されたヨブは「今でも天には、わたしの証人がおられます。私を保証してくださる方は高い所におられます。私の友は私をあざけります。しかし、私の目は神に向かって涙を流します。その方が、人のために神にとりなしてくださいますように。人の子がその友のために(ヨブ記17章19節―21節)」と、驚くべき発言をしていますが、ヘブル人への手紙7章24節―26節が「キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。」と、ヨブの願いはキリスト・イエスによって成就したこと、そして、すべての人にまず一番必要なのはイエス様であり、パウロが「私たちのために、ご自分の御子さえ惜しまずに死に渡された方が、どうして御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。(ローマ人への手紙8章32節)」と、今日の聖句が「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いをする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」と語っているように、本当に必要なものであれば神は与えてくださる、という信仰に立って罪を犯すように仕向ける欲に支配されないように生きようではありませんか。