この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている、やみはこれに打ち勝たなかった。(ヨハネの福音書1章4節―5節)
1.詩篇36篇5節―9節
2.ヨハネの福音書8章1節―12節
3.使徒の働き26章9節―23節
近年、壮厳な日の出を見ようと、多くの日本人だけでなくさまざまな国々から多くの外国人の方が富士山に登られるようです。実際山に登って目にしなくても、程度の違いがあると思いますが、さまざまな写真や映像でもその美しさを見る機会があると思いますが、やみが濃ければ濃いほど、その光の美しさはことばを絶するほどのものではないでしょうか。そのために多くの方は「御来光」と呼んで高い山から見える日の出を神聖なもの、ご利益があると考えて太陽を拝むようなことをしてしまいがちですが、その背景には山岳信仰があるようです。あるクリスチャンから「太陽は神様の造られたちょうちんで神様ではないよ。」と言われた方が、やがてまことの光であるイエス様を信じてクリスチャンになられたというお証を伺ったことがあります。今日の聖句の前句ヨハネの福音書1章1節―3 節は「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」と語っていますが、ヘブル人への手紙1章2節が「この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。」と語っているように、「この方」とはイエス様のことであることがわかります。ですから、今日の聖句「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている、やみはこれに打ち勝たなかった。」は、イエス様が光であり、「やみ」は世全体を支配しているサタンとも呼ばれる悪魔であることがわかります。主は悪魔が支配しているこの世に人として御降誕くださり罪を取り除くためだけでなく、悪魔のしわざを打ちこわすために来てくださり(ヨハネの手紙 第一 3章5節及び8節)、日常生活における不安や恐れだけでなく、悪魔の最大の武器である「死」をも復活をもって効力を失わせ「永遠のいのち」の保障を与えられました。今年どのようなことが待ち受けているのか皆目見当がつきませんが、やみの中、すなわち不安や恐れを抱いて歩むのではなく、どんな出来事にも意味があること、事前にすべをご存知でとりなしておられるだけでなく、歩むべき道に光を当てくださりすべてを益としてくださる主を心に据えて生きようではありませんか。