いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を解き明かされたのである。(ヨハネの福音書1章18節)
1.ヨハネの福音書4章21節―24節
2.ヨハネの福音書14章1節―11節
3.ローマ人への手紙 第一 1章16節―25節
人は神によって創造されたので、神の存在を知ってはいますが、神は霊であるために肉眼で見ることはできないために、自分たちの考えで目に見えるさまざまな像を造って、それを神として拝むようなことをしてしまうのではないでしょうか。エジプトにおいて数々の奇蹟を体験し、エジプトを出て神が約束された地に向かう途中も前方には紅海、後ろからはエジプト軍が迫ってくる状況にあっても神は紅海を分けてイスラエルの民が対岸に渡り終えると海を元に戻したので、エジプト軍はひとり残らず溺死したのを見て民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じたイスラエルの民でさえ、モーセがシナイ山から降りて来るのに手間取っているのを見て、アロンに「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」と言うと、アロンが「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪をはずして、私のところに持って来なさい。」と言ったので、民はみな、その耳にある金の耳輪をはずして、アロンのところに持って来たので、彼はそれで金の子牛を造り「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ」と言い、その前に祭壇を築き、翌日朝早くから全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえをささげて飲み食いし、立って戯れ偶像崇拝をしたのでした(出エジプト記32章1節―6節)。金の子牛の原料となった金のイヤリングは、人々の耳にぶらさがっていましたから、確かにエジプトから出てきましたが、偶像には何の力もないことにイスラエルの民のように多くの人々は気がつかないのではないでしょうか。なぜなら、今日の聖句が「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を解き明かされたのである。」と語っているように神を見たことがないからですが、神は神を知ることができるように、御子イエス様を目に見える人として、罪人を救うためになだめの供え物として遣わされ「神は愛である」ことを示されたのでした。恵みとまことに満ちておられるだけでなく、信仰の創始者であり完成者であるイエス様に属する者とされていることを、神を知る者とされていることを感謝し、偶像崇拝者が主を知ることができるようにとりなして祈ろうではありませんか。