満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。(テモテへの手紙 第一6章6節)

1.伝道者の書2111
2.ピリピ人への手紙 4812
3.ヘブル人への手紙13章3節—16節

ヨハネの手紙 第一 2章13節―14節が「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世からでたものだからです。」と、警告しています。なぜなら、ヤコブの手紙1章14節が「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」と語っているように、エバとアダムが「取って食べる時あなたは必ず死ぬ。」と、神が禁じた善悪の知識の木から取って食べて罪を犯した要因は悪魔が「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。(創世記3章4節−5節)」と偽りをもって神のことば完全に否定して誘惑したことだけでなく、彼らが神のようになりたい、という欲に支配されたことにあるのでないでしょうか。四十日四十夜断食したあとで空腹を覚えたイエス様に、悪魔は「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」と食欲に挑戦しましたが、イエス様は「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」と、みことばをもって勝利されたのでした(マタイの福音書4章1節―4節)。ソロモンは「人の子が短い一生の間、天の下でする事について、何が良いかを見るまでは、愚かさを身につけていようと考えた。」と、語ってから、「私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。実に私の心はどんな労苦をも喜んだ。これが、私のすべての労苦による私の受ける分であった。しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何に一つ益となるものはない(伝道者の書2章10節―11節)」と語っていますが、ソロモンはシバの女王が驚くほどの豊かや豪華絢爛さを持っていましたが、彼は物質の豊かさは心を満たすことができないことを、「目は見て飽きることのなく、耳は聞いて満ち足りることはない。(伝道者の書1章8節)」と、欲は満ち足りる心を与えることはでないことを悟ったのでした。イエス様は「わたしはいのちパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんな時にも、決して飢え渇くことがありません。(ヨハネの福音書6章33節)」を心に据え、今日の聖句が「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」と語っている、自分の肉、情欲や欲望から解放されるために、単なる敬虔さではなく、満ち足りた心を伴う敬虔に生きるためにキリスト・イエスにつく者として生きようではありませんか(ガラテヤ人への手紙5章24節)。