主よ。あなたは私の神。私はあなたをあがめ、あなたの御名をほめたたえます。あなたは遠い昔から不思議なご計画を、まことに、忠実に成し遂げられました。(イザヤ書25章1節)
1.詩篇40篇1節―5節
2.ローマ人への手紙11章25節ー36節
3.エペソ人への手紙1章3節―14節
4.エペソ人への手紙2章1節―10節
主は永遠から永遠に存在しておられる方であるだけでなく、すべてのことをご存知な神であるのですから、神がアダムに「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木から取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と警告したにも関わらず、人が罪を犯すことさえもご存知であったはずなのに、なぜ人を創造されたのかという疑問を持ったことがありました。エバとアダムが罪を犯さずにエデンの園で生きていたなら、イエス様が人として来られる必要も、人類を救うためにご自身を一粒の麦にたとえられ「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし死ねば、豊かな実を結びます。(ヨハネの福音書12章24節)」と仰せられてから自分がどのような死を迎えるかを思い、「今わたしの心は騒いでいる。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現してください。(ヨハネの福音書12章27節)」と、そして、ゲッセマネの園で苦しみもだえて汗が血のしずくのように地に落ちるほど祈られ、十字架で殺される必要もなかったのに、と思わされましたが、イエス様が来られなかったのなら、恵みによる救いの世界が開かれず、「神の子」という立場も与えられなかったのではないか、とも思わされ、パウロの「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」ということばに「確かに。アーメン」と言わざるほかないように思いました。主は十字架の死にまでも従われ、ご自身に与えられた使命を全うされてから三日目によみがえられ、死に勝利したいのちを現され、生ける希望を与えられ、行いによらず恵みによって救われる道を開かれたのでした。私たちの神がどのような方であるかを心に留めて、今日の聖句が「主よ。あなたは私の神。私はあなたをあがめ、あなたの御名をほめたたえます。あなたは遠い昔から不思議なご計画を、まことに、忠実に成し遂げられました。」と語っているように、人知では思いもつかない救いの道をご計画された神の愛とそのご計画を忠実に果たされた主をほめたたえて生きようではありませんか。