義のいけにえをささげ、主に拠り頼め。(詩篇4篇5節)

1.箴言33節―8
2.伝道者の書716節―18
3.ローマ人への手紙1216節―21
4.ピリピ人への手紙32節― 9

イエス様が「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫するものではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食をし、自分の受けるものはみな、その十分の位置をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」と、たとえ話をもって語られたように(ルカの福音書18章9節―14節)、自分の義に生きるとパリサイ人のように高慢になり、他者と自分を比較して優越感に浸り、他の人々を見下してしまうのではないでしょうか。パウロはキリストを信じる前の状態を「私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。」と、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を知らずに律法による自分の義に生き(ピリピ人への手紙3章5節―6節及び9節)、ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えて祭司長たちから与えられた権限をもってキリスト者を、教会を迫害していたのですが、イエス様から「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。」と言われてしまいました(使徒の働き26章9節―11節)が、キリスト者になり聖霊に満たされたパウロは、今日の聖句が「義のいけにえをささげ、主に拠り頼め。」と語っているように、自分の義をささげて神の恵みに生きる者、主に拠り頼む者となったのでした。この世の人々、時にはキリスト者であっても、自分こそ正しいという思いにとらわれてしまうのではないでしょうか。ソロモンは「あなたがたは正しすぎてはならない(口語訳:義にすぎてはならない)。知恵がありすぎてはならない。なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか(伝道者の書7章16節)」と自分の義や自分の知恵に生きないように警告しているように、自分こそ正しいという思いに生きるのではなく、キリストに属する者として、いのちのみことばを握って生活し(ピリピ人への手紙2章14節―16節)、主が仰せられたように世界の光(マタイの福音書5章14節)として生きようではありませんか