あなたがたは、地上のことを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。(コロサイ人への手紙3章2節―3節)

1.ローマ人への手紙64節―11
2.エペソ人への手紙21節―6
3.ピリピ人への32節―9

群衆がイエス様に手をかけて捕らえると、イエス様といっしょにいた者のひとりが手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした者に、イエス様は「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」と仰せられ、イザヤ書53章1節―12節に預言されているように、苦しめられ、痛めつけられただけでなく、人類を救うためにご自身を全人類の罪過のためのいけにえとしてささげられ、ご自身を十字架につけている人々のために「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」と、とりなされたのでした。主は殺されましが、三日目によみがえられ四十日後昇天され、父の右に座しておられますが、その姿はもはや罪人の手によって頭にはいばらの冠をかぶらされ十字架に架けられた痛ましい姿ではなく、栄光に満ちた姿をもって座しておられます(黙示録1章12節―17節)。私たちも、この世に生きている限り、苦悩したり、悲しんだり、さまざまな試練に会いますが、ペテロの手紙 第一 5章10節は「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」と、試練や苦しみが持つ意義を語っています。しかも、キリスト者はすでに永遠の栄光の中に置かれているだけでなく、エペソ人への手紙1章3節が「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」と語っているように、この世に属さない、天にある霊的祝福が与えられているのです。今日の聖句が「あなたがたは、地上のことを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」と勧めているように、地上のことにばかり気になって心がなえて、不安になったり、悩やんだりするようなとき、目線を天に向け、天には私たちの弱さをよくご存知な栄光の主が私たちのためにとりなしていてくださることを、天に蓄えられている霊的祝福が与えられていることを、そして私たちはこの世を支配している悪魔に属しているのではなく、キリストにあって神のうちにある者とされていることを感謝して生きようではありませんか。