そこで、主は言われた。「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも、古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。」(マタイの福音書1352節)

1.詩篇11997節―104
2.エペソ人への手紙21節―6
3.ピリピ人への手紙317節―41

ローマ人への手紙1章22節―23節が「彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と変えてしまいました。」と、コリント人への手紙 第一 1章20節―21節が「知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知者を愚かなものにされたではありませんか。事実、この世は自分の知恵によって神を知ることができないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」と語る一方で「兄弟たち。あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。」と、この世の知者の中にも、権力者の中にも、身分の高い者のなかにもキリスト者となっている人々がおられることを語っていますが、確かにこの世の学者や宇宙に探索機を飛ばすような科学者、政財界や教育界のリーダーであっても、天地万物を創造された神ではなく、学問の神として菅原道真を祭り上げたり、商売繁盛を祈願して稲荷神社に出かけたり、自分たちの欲望を満たす神々を神とするような人々で満ちており、葬儀では亡くなられた方に「天国で安らかにお眠りください」と、どなたでも天国について持論を語りますが、実は天国を見て語っているわけでないので想像の産物にすぎないのではないでしょうか。一方、今日の聖句は「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも、古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。」と、まことの神を知ることができないようなこの世に属する学者ではなく、天の御国の弟子となった学者、すなわち天の御国に属し、天の御国に関する知識を持つ者は、「自分の倉から新しい物でも、古い物でも取り出す一家の主人のようなものです」と、自分の倉、すなわち心に蓄えられている「新しい物」すなわち新約聖書からでも「古い物」すなわち旧約聖書からでも日常生活の必要に応じてみことばを思い起こしてみことば生きることができることを語っているのではないでしょうか。心が萎えているような時、問題や試練そのものを見るのではなく、ネヘミヤ記8章10節「主を喜ぶことはあなたの力です。」やヘブル人への手紙12章3節「あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」をもって、私たちが受けるべき罰を一身に受けてくださった主を、すべてをご存知な主を見上げるとともに、国籍が天にあり、御国の民とされていること、永遠のいのちが与えられていることを感謝して生きようではありませんか。